第44回 全国婦人のつどい
「くらしと経済」
特別講演(要旨)「どうなる新世紀のくらしと経済」
世界一になって芽生えた不景気の芽
経済学はお金がもうかる学問ではないし、役に立たないといわれていますが、ものの見方という点では重要な役割があります。
例えば、朝の新宿駅で電車を降りて出口に向かっていく群衆の流れがあります。そこで、ある人が何か忘れたと言って、逆の方向に行こうと思っても群集に押しつぶされてしまいます。経済学とは、そういう大きな時代の流れを捉えるものです。経済の改革や生活の方向転換は、この流れを知り、それに沿ったものでないと押しつぶされてしまいます。
実は1980年代後半から90年代のはじめにかけて、日本経済を取り巻く環境が大きく変わっていたのです。
一つはいうまでもなくバブル経済の崩壊です。この遠因は実は1985年9月のプラザ合意にあります。国際経済の発展のためにアメリカ、日本、イギリス、フランス、西ドイツ(当時)の先進5カ国の大蔵大臣と中央銀行の総裁が集まり、会談が開かれました。
当時、アメリカは膨大な貿易赤字を抱え、日本は反対に大幅な黒字で、その不均衡を解消するために、円高が合意されました。円を高くすれば日本の輸出が減り、アメリカの輸出が増えるだろうと考えたわけです。当時、1ドル240円だった為替レートが、アッという間に120円台になりました。輸出企業にとっては大変な打撃となりましたが、この円高不況はわずかに1年足らずで終わり、逆に円高好況になったのです。
なぜでしょうか。当時の日本の経済力はすでに世界一の強さになっており、円高メリットを逆に利用する力をもっていたからです。しかも日本は外圧とか危機があると、それらの逆境をバネとします。
プラザ合意による円高時もそうです。大変だということで皆一生懸命になり、生産の効率化や海外拠点の建設など、大きな体質改善を行ったのです。そして気がついてみたら、その年には1人あたりの国民所得が世界一になり、欧米に追いつけ追い越せが実現したのです。
しかし、トップに立つということは、日本のこれまでのやり方が通用しなくなるということでもありました。これまでは欧米が開発したものをモデルにし、日本人特有の勤勉さで品質や使い勝手をよくし、コストを下げるなどして、世界に輸出ができました。自動車も家電もそうです。
つまり、それまでは、How to make?、いかに作るかだったのですが、世界のトップに立って、What to make?、何をつくったらいいか、どういうものがいいのかを考えなければいけなくなったのです。
実は、このように日本自らが創造的に考えなくてはならなくなった時点で、日本の企業は対応力がなくなってしまったのです。けれども、円高不況を乗り越え絶好調景気になってしまったため、そうした状況に気がつかなかったのです。
不良債権問題も同じです。バブル期に金余りの銀行が企業に多額のお金を貸しました。借りた企業は何をやっていいのかわからなくて、不動産や株に手を出しました。1990年代に入ってこれらが含み損を抱えるようになって、不良債権の塊になっているのです。
冷戦終結で世界が競争相手に
もう一つの潮流の大きな変化が、冷戦の終結です。1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終わりました。このことは、国際政治や軍事分野の問題と捉えられがちですが、実は世界経済に大きな変化を与えるものでもあったのです。
アメリカはソビエトとミサイル競争をしないですむようになり、軍事費負担が大きく減少しました。そのお金や人材が民間の経済に投入されたことで、この10年間でアメリカの経済は目覚ましい復活を遂げました。
ヨーロッパも昔からヨーロッパ共同体を形成していたのですが、冷戦時代には軍事同盟的色彩の強いものでした。それが冷戦が終わって東側の脅威がなくなったことで、アメリカや日本に対抗する経済圏をつくるためのものに変わり、ユーロという通貨までつくって本格的に動き出しました。同時に中国やかつて社会主義だった国々、そして発展途上の国々も生産性を上げ、もの作りに励むようになりました。
日本が競争力を持った1980年代から90年代はじめくらいまでは、香港、台湾、シンガポール、韓国などが競争相手で、日本は1人勝ちの状態でした。しかし、今は全世界が競争相手になったのです。こういった流れを無視した舵取りをすれば、傷は大きくなるばかりです。