著名人・有識者が語る ~インタビュー~
謙虚な努力こそが自信へとつながる
工学博士、淑徳大学教授 北野 大
テレビなどでの活躍ぶりから、もともと大学教授をされていたイメージの強い北野大さんですが、教授としてのキャリアのスタートは、意外にも50代になってからだそう。
学生時代から抱いていた教壇への夢を諦めることなく、一方で、その時どきの仕事や立場で力を尽くしながら人生を重ねてきた北野さん。
「人生に、無駄な苦労はないんだよね」という言葉がじわりと心に染み入るような、独自の哲学とエピソードをうかがいました。
北野 大
(きたの・まさる)
1942年、東京都足立区生まれ。明治大学工学部卒業後、民間製薬会社に入社し殺虫剤製品の開発及び品質改良などに従事。その後、東京都立大学(現:首都大学東京)大学院に進学。1972年に博士号を取得し、工学博士となる。(財)化学品検査協会(現:化学物質評価研究機構)に勤務していた20年あまりの間に、タレント、コメンテーターとして、テレビ番組等でも活躍。1994年には淑徳短期大学教授に就任し、教壇に立つという長年の夢をかなえた(2008年~明治大学教授、2013年~淑徳大学教授)。タレントで映画監督でもある北野武氏の次兄としても知られ、その柔和で親しみやすいキャラクターから“お兄ちゃん”の愛称が定着している。
「環境化学」は人の暮らしと環境を想う“優しい”学問
穏やかな笑顔、優しそうな人柄、ビートたけし(北野武)さんの“お兄ちゃん”......。北野大さんの名前を聞くと、多くの人がさまざまなイメージを描くと思います。
クイズ番組やニュース番組のコメンテーターとしても活躍されている多彩な才能の持ち主ですが、本業が大学教授であることは知っていても、実際に何を研究なさっているかを知っている人は、意外に少ないかもしれません。
北野さんの専門は「環境化学」。なんだか難しそうな印象を受けますが、私たちの日常とは浅からぬ縁があるのだそうです。
「“環境化学”とは、ひとことで言えば、化学物質と環境の関わりを考える学問です。種々の製品などに使用する化学物質が、環境に出た後、自然界でどのように変化するのか。また、その変化や生物への蓄積などが、環境にどのような影響を与えるのかといったことを研究します。
環境化学の知識を持たずに製品開発を行うと、いわゆる環境問題につながる危険性があります。日本では、かつては、環境問題というと“公害”でした。工場から排出された煙や汚染水による大気汚染や水質汚濁が社会問題になりましたよね。四日市ぜんそくや水俣病など、有害な化学物質が引き起こした病気もありました。その後、法律の整備や技術の発展により、最近では深刻な公害はほとんど発生しなくなりましたが、それでも、例えば、洗剤に使用されている化学物質が人の身体や環境生物にどのような影響を及ぼすのか調べたり、今、製品に使用されている物質以上に地球に優しい物質はないかを探究するなど、環境化学には常に時代から与えられた課題があるものなんです」。
環境や人間を守るための研究は、いかにも優しそうな北野さんにぴったりの分野に感じられます。しかし
「いやいや、そんなに格好の良いものではありません。化学者たる者、おそらくほとんどの人は、新しい物質を発明したり新薬を開発したりして、華々しく社会貢献したいと考えていると思いますよ。若いころは僕もそっち派で、環境化学のベースである分析化学は、『地味な分野だな』と思っていたくらいです(笑)」
そう話す北野さんが、なぜ、その“地味な”道へ進むようになったのでしょうか。「大学在学中、分析化学の先生が病気療養を終えて復帰なさるということで、その研究室への志望者を募ったら、なんと応募がゼロ。『せっかく戻ってこられるのに......』と申し訳ない気持ちになってしまって」
自ら友人数人を誘い、その先生の研究室を志望し直したことが化学者としての北野さんのスタートになりました。何とも北野さんらしいお話のような気がします。
「北野家の子どもはできる!」功を奏した母の洗脳(?)教育
北野さんの経歴をさらに掘り下げてうかがうと、「本当はね、僕は英語の先生になりたかったんですよ」と、驚きのひとこと。
北野さんが子どものころは、語学が堪能な日本人はまだ少ない時代でしたが、それでも、学校で日本人教師に習った英語を話すとちゃんと外国人に通じました。
「英語が通じるってすごい!大人になったら、英語を使う仕事に就きたい!」
北野少年は、グローバル・コミュニケーションの素晴らしさに感動と興奮を覚えたのだそうです。元来努力家の北野さんは、コツコツ勉強し、ある国立大学の英文科に見事合格します。
「ところが、おふくろが、真っ向から反対したんです。『これからの日本は技術が必要になってくる。技術があれば将来は困らない。だから、うちの息子たちは工学部に入れる』って(笑)。それで、明治大学工学部に入学しました。国立大学の授業料が8千円だった時代に、明治の工学部は実験費込みで5万円。でも、おふくろは言っていました。『お金は、頑張って仕事をしていれば入ってくる。今、授業料が高いか安いかは問題じゃない』って。この言葉は、後々、私自身の仕事に対するモットーにも繋がっていきます。お金は一生懸命やった仕事に後からついてくる。最初から、お金を目的に仕事をしてはいけないなって」
北野さんの“おふくろ”、北野さきさんは、弟・ビートたけしさん作の自伝的小説『たけしくん、ハイ!』や『菊次郎とさき』などで一躍有名になった豪快なお母さま。少々強引ながらも決して信念を曲げない生き方、心意気に、北野兄弟は多大なる影響を受けて育ったようです。
「これは、東京の下町気質だと思うんですが、とにかく“おせっかい”でね。先にお話しした『これからの男子は工学部』説を、僕ら兄弟だけじゃなく近所でも強く唱えたんです。うちの裏に住んでいた5人兄弟をはじめ大工さんの息子や畳屋さんの息子にまで『技術を身に付けなさい!』って機械科や工学部に入れちゃった。自分が『良い』と思うことは、よその子であろうと同じようにする。そういう“おせっかい”は、今ではあまり見なくなったけれど、僕は大切な精神だと思います。まぁ、そのおせっかい話には、大工さんの息子が後で建築の専門学校に行き直すってオチがつくんですけどね(笑)」
ほかにも、この時代の人ならではの“もったいない”という倹約の姿勢や、大量生産の安い製品を買うより、多少高くても地元の人たちから買ってお互いに助け合おうという“やせがまん”精神など、北野さんが母親から影響を受けた言葉は枚挙にいとまがありません。
「それらに洗脳されてきたからこそ、今の自分があると僕は思っているくらいです。僕ら兄弟は『北野家の子どもはできるんだ』と言われ続けて育ちました。これもむろん、おふくろの洗脳作戦なのですが(笑)、褒められて期待されて育ったからこそ、『努力しなきゃ』『結果を出さなきゃ』と頑張れるんです。弟の武も、あれで実は大変な努力家。幼いころから染みついた『もっと期待に応えたい』という気持ちがとても強いんです。僕も学生たちには、褒めて伸ばす教育を実践しています」。
お金の使い方はシンプルなルールで
“貧乏でも、必要な時にはきっちり使う”。そんな金銭感覚を持つ母親のさきさんでしたが、普段の生活ではもちろん“締まり屋”。北野家の子どもたちにお小遣いというものはなく、本当に必要なときに申請する形が取られていたそうです。
「『勉強しろ』が口ぐせのおふくろでしたから、買った参考書を見せるとすんなりお金を出してくれるんです。『これはイケる』と思い、しばらくたってから同じ参考書を見せたら、お金は出してくれたけど、『大、同じ本を3回買うのはナシだよっ!』って釘を刺されました(笑)。当時は高価だったリール式のテープレコーダーを『英語の勉強に必要だから』と説明したら、これもすんなり買ってくれましたが、結局、それで音楽ばかり聴いていて、やっぱり怒られちゃいましたね(笑)」。
頭脳プレイとツメの甘さのうらはらさが、いかにも子どもらしくてほほえましいエピソードです。
結婚後もご両親と同居を続けたため、ひとり暮らしの経験はないという北野さん。現在も、お金の管理は奥さま任せなのだと話します。
「実は、うちに貯金がいくらあるのかもあまり知らない。とても自慢できることじゃないですね(笑)。でも、“足るを知る”というのかな、今の暮らしに満足しているし、欲しいと思うモノもあまりないんです。日常でお金を使うのは、みんなで飲み会や食事会に行くときぐらい。大体僕が年長者になるので、僕が支払うケースが多いんです。大事なことは、お金は使うべきときには使うということ。あとは、ペンとかカバンとか、普段使うモノを買うときは、多少高くてもお金を出して良いものを手に入れ、それらを長く大切に使いたいと考えています。環境化学をやっていることもあって、そういう意識は自然と強くなった気がします」。
確かに、取材にうかがった研究室は、実にシンプル...というより、ほとんど何もありません。
「本棚なんてガラーンとしているでしょ?これ、勉強してないわけじゃなくて(笑)、明治大学の学生たちに退職するとき(本を)全部あげてきちゃったんです」。
このあたりの思い切りの良さは、やはり、母親のさきさん譲りのような気がします。
“謙虚さ”は一流への入り口
大学卒業後、大手製薬メーカーの研究室に勤務していた北野さんですが、2年でその職を辞し、大学院へと進みます。
「研究室で任せられる仕事は、学卒と院卒で異なっていました。たった2年の違いで仕事内容が違うことが悔しくて、大学院に進むことを決意したんです」
けれど、せっかく博士号を取った後も、希望通りの人生が待っていたわけではありません。大学に残り、研究を続けたかった北野さんですが、それはタイミング良く欠員が出なければかなわない道。いずれ大学に戻る機会をうかがいながら財団法人の研究所に入りますが、結局20年間も勤務し続けることになりました。
「でも僕は、これまでの人生で起こった出来事すべてが、これで良かったのだと思っています。だって、時間はかかったけれど、僕はなりたかった大学の先生になれたでしょう?それに、英語を使って論文を書いたり、海外で発表したり、国際会議に出席する機会にも恵まれた。これは、財団で仕事をしたからできたこと。考えてみたら、若いころに『やりたい』と思っていたことはすべて実現しているんですよね。そして、回り道をしたからこそ、学生たちに伝えられることもたくさんあると感じています。『どんな経験も無駄にならない』って本当だなぁと、この年になってしみじみ思いますね」。
誰にとっても、人生は山あり谷ありですが、いつか振り返ったとき、北野さんのように思えたら本当に素敵です。
「それには、“謙虚である”ことが大切です。『威張ってはいけない』『謙虚な人間は、人から応援されるようになる』と、うちのおふくろも口ぐせのように言っていましたし、『人との縁は努力しなければ保てない』と教えてくれた、財団勤務時代の上司の言葉も心に残っています」。
人との縁を保つ方法として、「筆まめになること」をこの上司から勧められた北野さんは、手土産を持って訪ねて来てくれた人や著書を贈呈してくれた知人などに、手帳に忍ばせているハガキを取り出しては直筆のお礼状をしたためています。
「物もご縁ももらいっぱなしではいけない。いただいたものは少しでもお返しする。“筆まめの勧め”は良い人生を送る秘訣のひとつだな、と実感しています」。
目上の人からの教えを素直に実践してみる。それも、謙虚だからこそできること。そして、いろいろなご縁で、北野さんは人生のさまざまな転機を乗り越えてきました。
「僕は、やはりご縁でテレビやラジオなどにも出演させていただくようになりましたが、芸人さん、タレントさんにしても、歌手や俳優の方にしても、近くで接してみると、一流の方ほど人に気を遣い、人のアドバイスに耳を傾けています。本当に謙虚なんですよね。そして、忙しい中でも努力を惜しまず、よく勉強されている。勉強が嫌い、苦手という学生は残念ながら少なくないですが、謙虚な心を持てば、自ずと努力が必要なことが分かってくると思います」
謙虚であることで、自分に足りないものが分かって努力をする。努力を続ける中で自信がついてくる。その上でなお謙虚さを忘れずに生きていくことで自信が積み上がっていく。「堂々とした犬ほど吠えないでしょ。自分に自信のある人は威張らないんです。謙虚ってね、ただ腰が低いってことじゃないんです。なりたい自分に近づくための原動力なんですよ」。そう話す北野さんの笑みを浮かべた優しい目の奥に、培ってきた固い信念が感じられました。
本インタビューは、金融広報中央委員会発行の広報誌「くらし塾 きんゆう塾」Vol.30 2014年秋号から転載しています。