著名人・有識者が語る ~インタビュー~
自分らしく、背伸びせず。凛とした生き方を
元新体操選手・タレント 畠山愛理
新体操日本代表「フェアリー ジャパン」の一員として2012年のロンドンオリンピック、2016年のリオデジャネイロオリンピックに出場した畠山愛理さん。
現在はスポーツキャスターとして、また抜群のスタイルでモデルとしても活躍中です。
新体操との出会いから、苦難を乗り越え勝ち取った栄光、そして新たな挑戦、 今もなお持ち続ける新体操への愛まで、存分に語っていただきました。
畠山 愛理
(はたけやま・あいり)
1994年生まれ、東京都出身。6歳で新体操を始め、2009年、15歳でフェアリー ジャパンオーディションに合格して新体操日本ナショナル選抜団体チームに入団。2012年、ロンドンオリンピック代表に選出。2013年から2014年までフェアリー ジャパンの主将を務める。2015年、ミス日本コンテスト特別賞「和田静郎特別顕彰ミス日本」を受賞。同年、世界新体操選手権団体リボンで日本人として40年ぶりの銅メダルを獲得。2016年、リオデジャネイロオリンピック代表に選出。出場後、引退を表明する。現在、スポーツキャスターやモデル、タレントとして活躍。2017年、ベストドレッサー賞(スポーツ部門)を受賞。
6歳で新体操と出会いオリンピックをめざす
小さなころから活発で体を動かすことが大好きだったという畠山愛理さん。「2人の兄と一緒にサッカーをしたり、男の子に交じって遊ぶことも多かった」といいます。新体操との出会いは小学1年生、6歳のときでした。
「母が私に、バスケットボールやバレーボール、水泳など、いろいろなスポーツの体験入会をさせてくれたのですが、その一つに新体操がありました。それまでは兄がするスポーツの後ろを付いていく感じだったのが、新体操のリボンに触ったとき、初めて自分だけのものを手にした気がしてうれしかったことを覚えています。リボンがきれいで、踊ることが楽しくて、自分から『やってみたい』といいました」。
こうして新体操を始めた畠山さんですが、「体が硬くて、決して新体操に向いているわけではなかった」そうです。「それでも、『新体操が好き』という気持ちだけは誰にも負けないと思っていました。何をしていても新体操のことしか考えられない。好きという気持ちだけで、どんどん上達していきました」。
ところが、中学生になって初めて大きなケガを経験。思うように練習できない苦しい日々が続きます。「後輩たちにどんどん追い抜かされていくような焦りを感じました。気づいたら、あんなに好きだった新体操の練習に行くことが苦痛に。もう、このままやめてしまおうかなとも思いました」。
もし、そこでやめていたら、後のオリンピック選手・畠山愛理は生まれなかったわけですが、そのとき背中を押してくれたのは、中学校体育連盟の全国大会を引率していた保健室の先生の言葉だったそうです。
「先生は『あんなに新体操が好きだったのだから、嫌いになってやめるのはもったいない。誰のためでもなく自分のために全国大会に出場して、新体操が好きだった気持ちを思い出してからやめたら?』といってくれました。思うように練習もできず、こんな状態で大会に出ても…と周りの目を気にしていたのですが、先生の言葉で吹っ切れて、とにかく自分自身が楽しもうという気持ちで大会に出場しました」。
その結果、種目別で2位、総合で8位を記録。それでも、まだ続けるべきか迷っていた畠山さんを励ましたのは、小学校の卒業文集につづった自身の言葉でした。「そこには、新体操が大好きな気持ちと、『オリンピックに出場する』という強い決意が書かれていました。自分の言葉が、忘れかけていた夢をもう一度思い起こさせてくれたのです」。
ロシア合宿で学んだ新体操の美と表現
そんな矢先、中学3年生のときに新体操日本代表「フェアリー ジャパン」のメンバー選抜オーディションに応募し、見事合格してナショナル選抜団体チーム入りを果たします。「全国のクラブチームから選ばれた選手がオーディションを受けに来ていたのですが、その時点で、私はほかの選手に比べて何か特別な強みを持っていたわけではありませんでした。今思えば、技術よりも熱意を感じ取って選んでもらえたのかなと思います」。
選抜チーム入りをした直後からロシアでの合宿がスタート。新体操にのめり込む日々が本格的に始まりました。「『JAPAN』と書かれたジャージに初めて袖を通したときの感動は今でもよく覚えていて、張り切ってロシア合宿に向かいました。ただ、いざ現地で練習が始まると、レベルの差をまざまざと見せつけられました。ロシアは新体操王国なので、年下の選手でもレベルが高い。でも、いきなり世界を相手にしようと思うのではなく、まずは自分自身を高めていくことが大事だと気持ちを切り替えました。自分と戦って『今の自分』を超えていくこと。そして、世界を怖がるのではなく、むしろ自分のなかに取り入れよう、と」。
かつて新体操のトップ選手だった山崎浩子新体操強化本部長の指導の下、合宿では1年のうち350日、練習中も練習後もチームの選手とともに過ごします。ロシア人コーチによる厳しい練習のなか、大きなカルチャーショックも受けたそうです。
「日本の場合、国民性もあると思いますが、ミスなく、正確な演技を重視する傾向にあると思います。もちろんそれも大事ですが、ロシアでは『技術に勝るくらい見ている人に感動を与える、何か心を動かす演技をしなさい、ミスのない演技が成功ではなく、会場を自分色に染められてやっと成功よ』と教えられました。そこが、スピードや距離を競うほかの競技とは違う新体操の魅力でもあると、あらためて気づかされました」。
さらに、「恋愛も美しい演技につながるから、どんどんした方がいい」というコーチの言葉も中学生の畠山さんを驚かせました。
「日本ではアスリートに恋愛は邪魔という雰囲気があるなか、ロシアでは『恋愛をすることで女性らしさや美が磨かれる』という考え方をするのです。新体操の選手は演技を通して物語を演じたりします。例えば、好きな男性を振り向かせる演技をする場合、恋愛をしたことのない女の子には、その気持ちがすんなり理解できません。表現の幅を広げる意味でも、恋愛は必要なのだというのです。恋愛に限らず、オフの日は部屋で過ごすのではなく、『外に行って太陽から力をもらいなさい。花を見なさい。美しいものを見なさい。感受性が豊かになって演技にも生きるから』とコーチにはよくいわれていました」。
ロンドン、リオデジャネイロでついに夢の舞台へ
そして、17歳で出場した2012年のロンドンオリンピックでは、日本の新体操としては12年ぶりの決勝進出を果たし、団体7位を記録。低迷期ともいわれていた新体操を盛り返すフェアリー(妖精)たちの活躍に日本中が沸きました。
「ロンドンでは、チーム最年少でのオリンピック出場だったこともあって、周りが見えなくなるほど緊張しました。でも、山崎浩子先生に『こんなに緊張することは人生のなかでもめったにないこと。だからこそ緊張を楽しみなさい』といわれて、緊張するのも悪いことじゃないなとプラスに考えられるようになりました」。
さらに2016年のリオデジャネイロオリンピックでは2大会連続出場を果たし、団体8位を記録。日本の新体操復活を決定づけました。しかし、畠山さんにとってリオ大会は、大会終了後の引退をあらかじめ決めての出場でした。「もともとケガの問題もありましたし、モチベーションの問題もあって引退を決めていました。リオが終わってまた4年間、毎日厳しい練習をし続けられるのか、ロンドンやリオと同じ気持ちで挑めるのかと自分の心に聞いたときに、『選手としてはリオまでかな』と。誰にも相談せず、自分で答えを出しました」。
リオ大会では、ロンドン大会と比べて周りが見える余裕が生まれた一方で、現役最後の大会ということから別の緊張感もあったといいます。「徹底的に練習を積んで悔いのない演技をしたかったですし、その姿を後輩たちにも見せたいと思いました。そして、最高の演技で、今まで応援してくれた方たちへの感謝を伝えたい。そう思って臨みました」。
引退後の新たな挑戦 変わらない新体操への愛
現役引退後、畠山さんはスポーツキャスターをはじめ、ファッションモデルやバラエティ番組への出演など、多彩な活動に取り組んでいます。
「漠然とスポーツを軸にした仕事ができればとは思っていましたが、今はこれと決めずに、いろいろなことに挑戦して自分の可能性を広げたいと思っています。ファッションモデルの仕事も、とても楽しいです。新体操は全身を使って物語を演じますが、モデルの仕事も自分なりにテーマを設定し演じるという意味では似ています。体で表現をしながら一つの世界をつくることが好きなのだと思います。踊ることも大好きなので、ミュージカルのような舞台にも興味があります。そういうお話があれば、ですけど(笑)」。
畠山さんには、現役時代からモットーにしている言葉があります。それは、「自分らしく、背伸びせず」。アスリートというと、自らの可能性を引き出すために、むしろ背伸びをしながら極限まで自分を高めていくイメージがあります。それとは逆の考え方のようにも思えますが…。
「練習では極限まで自分を高めるべきだと思いますが、試合で欲が出過ぎてしまうと、うまくいかないことが多いものです。結局、練習をした以上のものは試合では出せません。徹底的に準備をしたからこそ、本番では自分らしく、そのときの自分を見てもらう気持ちで臨んだ方がよい結果につながる。その考え方は、今の仕事にも生きていると思います」。
現在、スポーツキャスターとして、さまざまなアスリートを取材し、発信する機会も多くありますが、2度のオリンピックを経験したからこそ、その言葉にも説得力が生まれるのではないでしょうか。
「そう思ってもらえたらうれしいですし、そこが自分の強みだとも思っています。ただ話を聞くだけではなく、その選手に共感できるからこそ引き出せるものもある。例えば、ケガをした選手に対して、『ほかの選手が練習しているのを見ると、早く自分も出たくてウズウズしますよね』というように、その人の気持ちに寄り添って話ができるのは元選手ならではかもしれません。そうしたアスリート同士の共感を視聴者の方にどう分かりやすく的確に伝えるのかが今の課題です。自分の思いと言葉がピタッと一致するのが理想ですが、なかなか難しいですね(笑)」。
さて、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催がいよいよ迫ってきました。オリンピック関連のイベントなどにも多数参加されている畠山さんですが、出場するフェアリー ジャパンの後輩に対して、このような思いでいるといいます。
「みんな必死に頑張って練習していると思うので、『頑張って』というより、とにかく『楽しんでほしい』という気持ちが強いですね。自国での開催ということで、そこに懸ける思いは全員強いはずですが、だからこそ楽しんでほしいなと思います。観客席からも日本人の声援が圧倒的に多いと思うので、むしろ緊張してしまうかもしれませんが、その声を味方にして存分に楽しんでもらいたい。
現役を引退すると、選手たちがとてもキラキラして見えます。選手たちが泣いている姿すら『ああ、いいなあ』と、うらやましくなることがあります。私も新体操に対して全力で向き合っていたからこそ、悔しいときは一晩中泣いたこともありましたし、うれしいときは心底喜ぶことができました。頑張っている後輩たちには、今しかない気持ちを大切にしてほしいですね」。
これから5年後、10年後の畠山さんは、一人の女性としてどんな成長を遂げていくのか、興味は尽きません。
「いくつになっても、凛とした女性でいたいなと思います。常に何かに夢中になって、頑張っている人は、自信に満ちあふれている。私もそういう女性でありたいですね。これから先、結婚や子育てを経験するかもしれませんが、いつか教える立場としてまた新体操に戻りたいという気持ちもあります。まず、新体操を好きだと感じてもらわないと、なかなか続かない。私もそうでしたが、好きだと思えると、頑張っている感じがしないものです。ですから、選手を育てることにはこだわらず、私が小学生のときに感じていた新体操の楽しさを子どもたちに伝えられる環境がつくれたらいいなと思っています。
やってみたいと思い、気づいたらリボンやボールなどを触っていて、いつの間にかそれが練習になっている。好きだから、楽しいからこそ、続けられる。そういう感覚を子どもたちにも伝えられたらいいなと思っています」。
本インタビューは、金融広報中央委員会発行の広報誌「くらし塾 きんゆう塾」vol.49 2019年夏号から転載しています。