著名人・有識者が語る ~インタビュー~
どの人生にも冒険がある
プロスキーヤー、クラーク記念国際高等学校校長 三浦 雄一郎
アドベンチャースキーという独自の分野を開拓し、冒険スキーヤーとして様々な世界記録を樹立してきた三浦雄一郎さん。
昨年75歳でエベレストの登頂に成功し、ギネスブックに最高齢登頂者として登録されたニュースはまだ記憶に新しい方も多いことでしょう。
そんな三浦さんに冒険の魅力や未知に挑戦する生き方についてお話を伺いました。
2008年5月26日 エベレスト山頂(8848m)に。その登頂の第一声は「涙が出るほど辛くて、厳しくて、嬉しい」というものだった
三浦 雄一郎
(みうら・ゆういちろう)
1932年10月12日青森市に生まれる。1964年イタリア・キロメーターランセ(現在のスピードスキー)に日本人として初めて参加、時速107.084キロの当時の世界新記録樹立。2008年、75歳にして2度目のエベレスト登頂を果たす。記録映画、写真集、著書多数。クラーク記念国際高等学校校長、(社)全国森林レクリエーション協会会長、NPO法人グローバル・スポーツアライアンス理事長、(財)こども教育支援財団副理事長他。
未知の可能性への挑戦が冒険の本質
2月にスキー場でのアクシデントで骨盤骨折という重傷を負ったばかりの三浦さん。しかし取材当日の数日前には無事に退院をし、リハビリテーションに打ち込む日々の中で元気な姿を見せてくれた。
「冒険は冒険家だけの特権ではないんです」と三浦さんは穏やかに語り始めた。富士山やエベレストなど世界7大陸の最高峰からのスキーでの滑降、そして70歳を越えてからの二度に及ぶエベレスト登頂など、超人的な冒険人生を歩んできた三浦さんにとって冒険の本質とは、未知の可能性への挑戦だという。
「そう考えていくと、どんな人にも冒険のあることがわかってきます。いろんな人の冒険があったおかげで、今の人類はあるのでないでしょうか。人類の祖先が安住の地である森林から草原へ一歩を踏み出したことは、外敵に身をさらすとても危険な冒険だったはずです」
三浦さんは、何かを発明したり、科学的な発見をすることも冒険であると話す。発明や発見という未知の可能性への挑戦。そこから得られた数多くの成果があったからこそ、私たちの暮らしが成り立っている、というのが三浦さんの持論だ。人それぞれにある冒険。その一つである先人たちが成し遂げた発明や発見の恩恵を受けて私たちは生活し、そこで私たちもいろいろな冒険をしている。未知の可能性に挑戦する限り、子どもも大人も、そして女性も男性もすべての人に冒険があるのだ。
父から学んだ冒険の精神
三浦さんに大きな影響を与えたのは、父親の三浦敬三さん。公務員をしながら山岳スキーヤー、山岳写真家として残した数多くの実績とともに、その存在は、わが国スキー界の草分けとして知られている。そんな父親から三浦さんは信念とチャレンジ精神を学んだという。
「父が活躍しはじめた当時のスキーといえばヨーロッパが主流。日本のスキーには、オリジナルのスタイルはまだ存在していませんでした。父は、そこに疑問を持ち、新しい独自のスタイルを確立したんです。当然、異端児として見られました。スキーといえばヨーロッパという当時の常識に敢えて挑んだのですから」
既成概念にこだわらず、わが国のスキーの向上にとって何がベストかを考え、それを追求すること。そのために父、敬三さんは、信念を貫き、わが国のスキー界に多大な業績を残した。101歳で亡くなるまで現役スキーヤーとして活動、また山岳写真家としては芸術への挑戦を続けた。生涯、己れの信念と未知の可能性への挑戦を貫く父親の生き方そのものに三浦さんは冒険心を感じて育つ。
日本一がダメなら世界一になろう
そして高校、大学とスキーに打ち込んだ三浦さんは、スキー選手として活躍するようになる。しかし、転機が訪れた。「日本代表としてオリンピックの出場を目指していたのですが、その夢はかないませんでした。完璧な挫折の中で私の冒険人生が始まったんです」
やがて三浦さんは従来のスキーではなく、アドベンチャースキーという新たな分野を開き、その道を歩み始める。
「簡単に言えばスキーを使って誰もやっていない冒険をする。それがアドベンチャースキーです。今までのスキーでは日本一にはなれなかったけれど、アドベンチャースキーで世界一の記録を作ろうと決心したんです」
「精神的に暗くならない、自分自身を追い詰めない。楽天的な考え方が若さを保つ秘訣。ぼくはそんなに真面目なほうじゃないんだ」と、とても75歳には見えない三浦さんは話す
三浦さんの選んだ道には、二重の意味で冒険がある。一つは言うまでもなくアドベンチャースキーそのものが冒険であること。そしてもう一つの冒険は、アドベンチャースキーという前例のない分野でプロとして生きることだった。
「今まで誰も足を踏み入れたことのない世界がアドベンチャースキーです。どんな課題に挑戦すべきかをプランするのも自分。そして実際にそれに挑み、成功させる競技者も自分だったのです。いわば作詞も作曲も歌も全部自分でやるシンガーソングライターのようなものでした」
三浦さんは未知の可能性への挑戦に躊躇はなかった。数々の世界新記録に輝くアドベンチャースキーヤー三浦雄一郎。その名は世界に轟いていく。
マイナスからスタートした70歳の挑戦
「60歳になった頃、引退しようと決めました。世界記録を打ち立てるという夢は幾つもかなえたし、もうこれでいいかなと思ったんです」。リタイヤした生活を始めて3年ほど経過したある日、三浦さんは、奥さんの付き添いで病院に行き、健康診断を医師から勧められる。「診断結果は、さんざんなものでした。完全なメタボ状態。糖尿や心臓病などいくつもの生活習慣病にもかかっていたんです」
三浦さんは愕然とする。このまま自分は老け込んでしまうのか。60歳を越えてから海外遠征を始めた父の敬三さんの姿も思い浮かんだ。「冒険にリタイヤはない。どんな人にも冒険があり、一人の人生のどの時間も冒険でありえる。そう考えた末の結論は、70歳でエベレストに登ることでした。エベレストの8000メートル級の地点から滑降したことはありましたが、頂上まで登ったことはありませんでした」
三浦さんによればエベレストのような8000メートル級の山に登れば、身体能力はその負荷で肉体年齢に70歳分を加えた状態まで低下すると言う。
エベレストに登るその日までにどこまで肉体年齢を若返らせていけるか。64歳で三浦さんの新たな冒険が始まった。様々なトレーニングを自分に課し、移動中も両足首に8kgずつの重りと20kgの重り入りのリュックを背負う日々が続く。
一歩ずつエベレストへの歩みを進める三浦さん。それはゼロからではなく、いくつも生活習慣病を抱えた、いわばマイナスからのスタートだった。
どの人生にも冒険がある。その信念を三浦さんは貫く。そして2003年、70歳という当時の世界最高齢でのエベレスト登山に成功。さらに2008年には75歳で再登頂し、世界記録を更新する。半年前に心臓手術を受けた上での快挙だった。老いや病気といったハンディを抱えて冒険に成功した三浦さん。その生き方は冒険家ではない私たちにも勇気を与えてくれる。信念と挑戦、あきらめない心があればどんな人にも冒険はある。
冒険もお金も一歩ずつが大事
三浦さんは、様々な冒険の中でお金に対する独自の考え方を持つようになったという。
「お金はトレーニングと同じで目標に向かって少しずつ積み重ねていくことが大事だと思います。父は、公務員で収入も限られていましたが、質素な暮らしの中で少しずつ貯金し、スキーヤーや山岳カメラマンの活動のためにお金を計画的に使っていました。私にとっては、親という身近なお手本があったのです」。三浦さんは、お金をいかに有効に使っていくかも冒険で欠かせない要素であると訴える。「限られた資金の中で最高レベルの現地スタッフを確保し、酸素ボンベをはじめとするたくさんの道具も最適なものを揃えていく。その準備からすでに冒険は始まっています」
貯めることも大切だが、もっと大切なのは何に使うか。その目標に向かって一歩一歩を確かに歩み、最も価値のある使い方をしていく。お金に対しても三浦さんらしい視点がそこにある。
80歳――再びエベレストへ
現在、三浦さんは、再び大きな目標を持っている。それは80歳でもう一度エベレストの頂上に立つことだ。しかしその矢先、今年2月にスキー場で骨盤骨折という大アクシデントに見舞われる。
「入院した当初は少し体を動かしただけでも背中全体に針をさされたような激痛が走りました。その中でエベレストの山中での苦しい生活を思い出しました。断崖絶壁にテントをぶら下げての宿泊、マイナス30度を超える極限の寒さ。死と隣り合わせのあの登山と比べれば天国じゃないか。そう自分に言い聞かせてがんばり、寝返りがうてたことや、一人でトイレに行けるようになったことなど、一つひとつ小さな回復を喜びました」
生活習慣病を抱えて70歳でエベレストに挑んだとき以上に、80歳でのエベレスト制覇を目指す今は、さらにマイナスからのスタート。しかし、三浦さんはこう語る。
「冒険は未知の可能性への挑戦。だからアクシデントはあって当然です。それはどんな人生でも同じです。大事なのは逃げずに挑むこと、あきらめないこと。そしてそれを成し遂げる喜びはどんな人でも体験できます。冒険は冒険家だけのものではありません。どの人生にも冒険があり、私たちはそれを達成し、喜びを分かち合える権利があるのですから」
本インタビューは、金融広報中央委員会発行の広報誌「くらし塾 きんゆう塾」Vol.9 2009年夏号から転載しています。