著名人・有識者が語る ~インタビュー~
今、社会で何が起きているのかを教えてくれるのは“言葉”です。
日本文学研究者 早稲田大学特命教授 ロバート キャンベル
日本文化に心惹かれ、来日してすでに38年。
さまざまなメディアで活躍するロバート キャンベルさんは専門である日本文学はもちろん、あらゆるジャンルに造詣が深く、的確で美しい日本語で話す姿が印象的です。
知の源にあるのは、たゆまぬ“言葉”への興味。
江戸時代の古典を読みながら戦地ウクライナに思いをはせるというキャンベルさんの頭の中を、少しのぞかせてもらいました。
ロバート キャンベル
ニューヨーク市生まれ。日本文学研究者。早稲田大学特命教授。早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)顧問。東京大学名誉教授。近世・近代日本文学が専門で、とくに19世紀(江戸後期~明治前半)の漢文学と、それにつながる文芸ジャンル、芸術、メディア、思想などに関心を寄せている。主な編著に『日本古典と感染症』(角川ソフィア文庫)、『よむうつわ(上・下)』(淡交社)、『戦争語彙集』(岩波書店)など。
何かを学んだら、それを形にして次の人に伝えることが大事
日本文学研究者として知られるロバート キャンベルさん。
大学1年生のときに出会った『源氏物語』に興味を持ったことをきっかけに、日本語を覚え、やがて最も心惹かれた江戸時代の文学を学ぶため、27歳で九州大学へ留学。
日本で暮らしながら学びを深め、日本文学の研究者としての道を歩みました。
その後は絵画、陶芸、料理など興味は多方面へと広がり、作家として、あるいはテレビやラジオでのコメンテーターとして、深い知見を披露しています。
キャンベルさんの知の源泉は、いったいどこにあるのでしょう。
「私は、長く東京大学の教養学部で教育に携わり、現在は早稲田大学特命教授として早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)の顧問をしています。
こうした日々のなかで私自身、常に何かを学び、学んだことを成果として発表しています。
この“成果”というところが大事だと思っています。
つまり、ただ知識を自分の中に入れるだけでなく、学んだことに形を与え、それを周りの人たちに伝える。
伝えたら、社会は何か変わるだろうか、どんなエフェクトが生まれるだろうか。
そこをまた、皆さんと一緒に考えて、次のステップに進んだり、ときには戻ったりする。
学びというのは、まるで螺旋(らせん)階段をのぼったり、あるいはメビウスの輪を巡ったりするようなものといってもいいかもしれません」。
江戸時代の日本では“よむ”ことが学びの原点
“学び”というと本を読んだり、あるいはインターネットで何かを調べたりと、自分1人で黙々と行うものというイメージが強いかもしれませんが、実は、学ぶことと、学びから得たものを形にして、周りの人に教え伝えることを両輪とすることが大事なのだと、キャンベルさんは考えています。
「これは、江戸時代の文献や人々の手紙などから学んだ発想なんです。
当時の学び方を調べてみると、漢詩や和歌を学ぶ場合、人々はたくさん“よむ”ことから始めます。
“よむ”という言葉には、「読む」「詠む」などさまざまな漢字を当てることができ、閲読(えつどく)、黙読、声に出して朗詠(ろうえい)する、さらには、自分で和歌などを制作する“よむ”もあります。
それが全部ひと連なりになっているんです。
たとえば、江戸時代の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)は古典についての注釈を多く書いていますが、自らもたくさんの歌を作っています。
彼は歌を作ることで古(いにしえ)に近づき、肉薄し、体験をして学んだわけです。
さらに、昔の人はこうした体験を1人では行いませんでした。
特に若い人たちは集団で会読(かいどく)をしました。声を合わせて読むことも、体験すること、形にすることの一つです。
この一連の流れが学びであり、教育であるといえます」。
朗読の大切さを多くの人に広めたいと、キャンベルさんは、現在顧問を務める国際文学館で、定期的に「Authors Alive! ~作家に会おう~」というイベントを開催しています。
日本を代表する小説家や詩人、文化人などを招き、自作朗読をしていただきながら、キャンベルさんと対談する企画です。
事前に寄せられた質問をもとにキャンベルさんが質問を投げかけ、相手が言葉にしたことがなかった深い思いがその場で引き出されるなど、学びを共有する喜びがあるといいます。
あらゆる場面で学びは可能。恋愛からも学べます
近世・近代日本文学が専門のキャンベルさん。
改めて、なぜ昔の日本文学を研究されているのか、うかがってみました。
「昔のことを学んでいるように思えても、知識というのは、先ほどお話しした“螺旋階段をのぼる”ようなもので、ひとつにつながっていくんです。
たとえば、コロナ禍にあった2021年、私は『日本古典と感染症』という本を作りました。
実際に今起きていることと、数百年も前にあった病の歴史を学び直してみて、私がまず思ったことは『先人も戦ったのだ。私たちは1人ではない』ということでした。
この列島の中では、万葉集の時代から感染症があり、個々の人が、あるいは集団として、あるいは政治機構として、パンデミックと向き合い、乗り越えてきました。
それを知り、私は何ともいえない落ち着きを得ることができました。
そして、感染症と日本文学は切っても切れない関係にあることにも気づき、それが日本の文学史に深みを与えていることもわかりました」。
古典を通して現代を生きるヒントが得られるというのは、大きな発見であり、学びの大切さを改めて実感させられる事例です。
「日常生活のなかでも、こうした気づきは得られますよ」とキャンベルさん。
披露してくれたのは恋愛のお話でした。
「人間関係全般にいえることですが、相手との関係性を構築するなかで、人は自分について学ぶことができます。
とくに恋愛の場合、自分の言葉や行いを恋人が受け入れてくれないと不安になり、自分に何が足りないのかを考え、自分の姿を見つめ直します。
だから、恋愛は失敗を含めて、自分のことを知る早道だと思うのです。
実は私も以前、恋愛で失敗したことがあるんです。
まだ福岡にいたころの話です。
恋人ができて最初はうまくいっていたのに、だんだん疎遠になり、結局フラれてしまいました。
何がいけなかったのかがわからず、せっかくならば次は成功したいので(笑)、すべてが終わった段階で理由を聞いたんです。
そうしたら『一緒にいるときに話し方が事務的だった』と言われたんです。
「え?」と思いましたが、少し思い当たる節がありました。
当時、私が教鞭をとっていた九州大学では、大学内では主に標準語が使われていましたが、大学の外に出るにつれ、土地の言葉が濃くなっていくように感じていました。
一方、相手の人は常に博多弁を話す人でした。
そして、何年も滞在するなかで私も博多弁を覚えていったとはいえ、私の話し方や使う言葉を冷たいものとしてとらえたらしいのです。
私はそのとき、地元の言葉を習得しないと恋愛はできないということを学びました(笑)」。
今、社会で何が起きているのかを教えてくれるのは“言葉”です
言葉というのは、身近にあるからこそ、私たちの生活や人生に関わり、大きな影響を及ぼします。
キャンベルさんは言葉を一つの軸としてさまざまな経験をし、そのたびに人生の扉を開け、道を切り拓いてきました。
そして、今強く伝えたいことは、言葉は不変ではなく、使うシチュエーションや時代により、意味や使われ方が変わっていくものだということです。
政治が変わり、体制が変わると、昨日まで正しかった言葉が今日からは正しくなくなる。
そうした現象は、今も世界中で起こっています。
とくに戦争という状況下ではその現象がより顕著です。
キャンベルさんは、ウクライナ侵攻の中でつづられた、言葉が持つ意味を深く考えさせられる一冊の本に出会いました。
「ウクライナでボランティア活動をしているオスタップ・スリヴィンスキーさんという詩人がいます。
彼はリヴィウという町の中央駅で、全国から逃げてくる避難者のお世話をしながら、彼らがここに来るまでに体験した悲惨な出来事をつぶさに聞き、独白という形式で書き起こし、Facebookに上げています。
一つひとつの話の中には必ずシンボリックなものが登場し、それが文章のタイトルになっています。
たとえばココア、鍵、パン生地、手紙など。
最終的に77の証言がまとまり、彼はそれをアルファベット順に並べて一冊の本にしました。
初めて読んだとき、私は『これはすごい。報道とはまったく違うウクライナの現実がつづられている』と感じました。
ぜひ日本語に翻訳したいと思い、スリヴィンスキーさんに連絡を取り、対話を重ね、翻訳の許可を得ることができました」。
ウクライナで何が起きているのか戦争の真実を伝える貴重な本
『戦争語彙集』というタイトルを冠したこの本には、戦争が言葉の意味を180度変えてしまう実例が数多く紹介されています。
たとえば、戦争以前、村に住む若い女性にとって“きれいなこと”、例えばきれいな服を着て外出することは嬉しいことでした。
しかし、ロシア兵に侵略された今、きれいに着飾ることは、彼らの暴行を受けかねない危険な行為になりました。
あるいは、若いとき肌に稲妻のタトゥーを入れた女性は、その形がナチス・ドイツの親衛隊SSのマークに似ていると指摘されたことから、「ロシア兵に見つかったらウクライナ国粋主義者だと誤解され、射殺されてしまう」とおびえています。
若気の至りで入れた、楽しい青春の思い出のタトゥーが、今は自分を危険な目に遭わせる忌まわしいものになってしまったのです。
「完全に価値が逆転した、という証言が、この本の中にたくさん出てきます。
戦争によって言葉の意味が捻じ曲げられたことを断面図としてとどめる、とても貴重なドキュメントです。
この本の中の言葉には、比喩もレトリックもありません。
この先、もしもまた悲惨な状況を招きかねないとき、言葉がどうあるべきかということを、当事者たちのむき出しの言葉を読みながら、私たちは考えなくてはいけません」。
さらにキャンベルさんは、翻訳をするだけでは文脈が伝わらないと、なんと戦地ウクライナ取材も敢行。
リヴィウの駅に立ち、現地の今を立体的にとらえ、証言者たちにも会い、思いの丈をルポルタージュとして本に掲載しています。
「日本文学研究者の私がなぜ、そこまでするのか。皆さん、きっと不思議でしょうね。
でも、日本の歴史的な文芸と、今、戦争が起きている中で人々がどんな自己表現をして、自分を奮い立たせるためにどんな言葉を使っているか、という部分が、私の中ではちゃんとつながっているんです。
学びを深めていくと、おのずと異なるベクトルや扉が現れます。
私のエッセイには、紀貫之(きのつらゆき)や永井荷風(ながいかふう)、原民喜(はらたみき)なども登場します。
大事なのは、日本古典文学を、今のウクライナ侵攻に掛け合わせたとき、何が見えてくるのか、という態度で読むことだと思います。
そして、この本をきっかけに、日本の古典への入り口を見出す読者もいるかもしれません。
それも望ましいことです。
私自身、今お話をしたような文脈で、実際にウクライナの景色を見て、日本に帰ってきたときに古典を読み直したところ、異なる角度からさまざまなイメージや意味を見出すことができました。
大変貴重な体験だったと思っています」。
自分の意志で行動するときバックアップしてくれるのがお金
人生100年時代といわれていますが、キャンベルさんがこれから大事にしていこうと思っていることは、「健康と良好な人間関係、そしてやはりお金でしょうね」。
「自分の備えとして、換金性が高く、何かあったときに使える資金は必要です。
また、不動産など資産を持つと、管理費・税金など一定の費用がかかりますので、積み上げてきた資産が10年後も同じ価値を保つ程度には、資産そのものが働いて価値を生み出すようにと考えています。
ファンドについては、社債や国債、為替、不動産などいろいろありますが、自分でテーマを決めて選びたいですね。
例えばSDGsに前向きなイノベーションをしている会社や事業など、社会全体に目を向けた、若い人たちがスタートアップしているような会社はいいかもしれません。
私がエンジェル投資家(注)になることはできませんが、責任ある立場で若い人たちのイノベーションをサポートしていくファンドなどには、興味があります。
- (注)
- 創業して間もない企業に出資をする個人投資家
でも、そればかりでは少々不安にもなりますから(笑)、バランスをとって、テトリスのようなイメージで組み合わせ、うまく資産を運用できたらいいのかなと思います」。
お金に対してもしっかりと計画性を持ち、備えているキャンベルさんが、最近、お金の大切さを痛感した出来事があったといいます。
それが先ほどお話しいただいたウクライナ渡航でした。
「取材のためとはいえ、今のウクライナは、私が思い立って、ふらっと行けるような場所ではありません。
いろいろな手当てをして、遺書を書き換えたりするなど、一定の覚悟はしました。
外務省の危険情報で『退避勧告』とされている場所です。
そこに行って、結果、負傷したりしたら大事件です。
自己責任を問われますし、とにかく誰にも迷惑はかけたくありませんでした。
行ったら絶対に病気にならないこと、ウクライナの人たちに救急車を呼ばせたりなどしないことを、自分に課しました。
そして、このすべての裏付けになったのがお金でした。
もちろん、自費出版ではないので、その部分ではお金はかかりませんが、現地取材にかかるお金は自腹です。
学術研究をする際には、日本学術振興会の科学研究費補助金を申請できるのですが、今回のウクライナ行きは該当しません。
仮に申請が通ったとしても行けるのはポーランドまで。
ウクライナには入れないんです。
それでも行きたいと思った私は、自費でウクライナに行ったのです。
2週間余りの滞在のなかで、現地の人の貴重な言葉を聞くこともできましたし、LGBTの人たちのシェルターを訪ねて、少しですが寄付もしました。
誰にも頼まれずに自分の責任と判断で行動を起こし、寄付までできたのは、本当にありがたいことだったと思います。
何かをなすとき、自分の意志で行動したいとき、お金は大きなバックアップになる。
だからこそ大切に守り、必要に応じて使うことが大事だと痛感しました」。
本インタビューは、金融広報中央委員会発行の広報誌「くらし塾 きんゆう塾」vol.67 2024年冬号から転載しています。